ぽっつん大学生のミニマリスト生活

大学生が、必要最低限で丁寧な暮らしを目指すブログです。物質的なことはもちろんですが、精神的な側面も。

察する事って良いこと?

こんにちは、ぽっつんです。

 

今日は、人間関係の在り方を整理していくうえで避けては通れなかった命題について触れていきます。

 

”察する”とはどういう行為でしょうか。

 

[動サ変][文]さっ・す[サ変]
1 物事の事情などをおしはかってそれと知る。推察する。「気配を―・する」「―・するところ何か隠しているだろう」
2 他人の気持ちをおしはかって同情する。おもいやる。「苦衷を―・する」「彼の悲しみは―・するに余りある」
3 深く調べる。
「人物の体質を―・する学者」〈中村訳・西国立志編

 

辞書で調べてみるとこのように出てきました。おそらく、一般的には一番の意味合いがメインで使われていることかと思います。場合によってはそこに二番も混ざってくる、という具合でしょうか。

そして、ここでは書かれていませんが、ほとんどが「良い意味」として使われていませんか?「察しが悪い」「察しろよ」という言葉からもそれが読みとれます。察したからと気づいて悪く言う人は、私は見たことがないです。(基本的に鈍感なのでこの経験則はあてになりません)

でも個人的には、「え、今の察してもらったのかな?言いたかったこと違うんだけど汗」ということが非常に多いです。みなまでいう前に返ってきた言葉の半数くらいは的外れです。

そのため、「察するって早とちりじゃないか…なんでわざわざそんなことするんだよ…最後まで聞けよ…」と考えてしまいます。

なぜこんな事態になるか、再考してみました。すると、原因は大きく二つに分かれるという結論になりました。

 

1.話を聞く側に”言葉のテンプレート”が身につきすぎている

学生時代、古文で和歌を習いました。その際に枕詞といって「特定の言葉の前に置く言葉」というものが出てきたんですね。現代文ではここまで定型的に教えられる語法ってあるかどうかうろ覚えなのですが、少なくとも日常を過ごしていると「文法的に」言葉を使っている場面は多いと感じます。

例えば、「予定がなかったら/行けたら/空いてたら 行く」という言葉。飲み会などに誘われた際にその場で返答できないという状況で用いられます。

ところが、これを”断られた”と捉える人がいるらしいのです。いる、というか多いというか。まぁ、人数を早めに把握する必要がある場合や予約の変更が利かない場合は、主催者の都合でそのようにとらえても問題ないと思うんですよ。いつ予定が定まるか待ってるわけにはいきませんからね。「じゃあ、今回は○○(上記の理由)だからまた今度誘うね」と。むしろこれは質問した側が明確に断っているので問題ありません。

問題なのは「行けたら行く」とそのままを伝えている&即答の必要性もないのに拒絶されたようなリアクションをしてしまうパターンです。これはしかも、その場でその認識を共有できることは少なく、後日「その日は開いていたから行くよ」などと改めて伝えた際に「え、来るんだったの?行かないって意味かと思った」などと誤認が発覚することが多いように思われます。

そしてこれは、「行けたら行く」という言葉が”お断りの常套句化”しすぎていることに起因します。まして相手が日本語ネイティブで常套句を駆使しまくる場合は、ナマモノとして言葉を使う相手とは話が通じにくいですね。

そもそも日本という島国の歴史を勉強していくと(古典もそうですが)このような、非生産的とも実用性が低いともとらえられる文化は根深いため、一概にやめるように求めるのは困難です。さすがにビジネスの場では明確な意思表示が求められる(はずな)ので、奥ゆかしい言い回しが苦手な人は勉強するか、そうした世界に重きを置くとよいかもしれません。

 

2.話す側の伝え方が下手

1.にも関連してくることですが、単純に話が通じていない場合です。まぁ、先の例えであれば誘う側でも誘われる側でもよいので(行くか行かないか)結論が出るまで確認を取れば済む話ですが…

・常套句化され、そのままの意味(上記でいうと「行けたら行く」)では通じにくい言葉について無知である

・常套句だと知ってはいるが、そのままの意味で使う

・言葉が足りていないがために伝わらない

 

ざっと挙げただけでもこれだけ出てきました。具体例に落とし込むとかなりのケースが出てきてしまうのであえて書きませんが、意思表示が上手くできないことにはシンプルな理由も多そうです。一方で常套句を知っているかいないかでも大きく変わってきそうです。

下手すると、話し手の人格を疑われる、避けられる、仕事に影響がる・・・といった負の影響がが生まれかねません。なにを不利益と感じるか、人に伝わる必要性を感じるかは人それです。そもそも頭の中にあるものを100パーセント伝えることは不可能なので”自分は適格に伝えられているか”と気にしすぎるても意味が無いです。

とはいえ、その「100パーセント」に少しでも言葉を近づけるためにも常套句はあるので

誰と話しても誤認が多いな、と実感できる人は自分自身と少し遠くから見て具体的に改善すると楽に生きられるかもしれません。(私も改善を図っている当事者です笑)

 

”言いたい違うことが伝わる”原因が考えられたところで、”察する”ということそのものについて別の視点から分類してみます。

以下の分類も上記の要因の一端を担っている可能性がありますが割愛します。

 

1.文脈から分析して想定できる

センターの現代文などはこの典型ではないでしょうか。精神的ないわゆる””オモイヤリ”などの抽象論ではなく、論理的なつながり、つまり「つじつまが合うか」でみなまで言わなくても次の言葉が推測可能というパターンです。活字に線を引きながらじっくり読み解くことと違って、また主人公も定まっていない現実世界においては解読がより困難とは思いますが、「話し手の立場」にフォーカスできれば比較的容易で、生産的な察しかと思われます。先に載せた辞書からの引用の一番も、こうした意味合いが強いかと思います。

 

2.いわゆる”一般論”や”普通”とされる心情・言動から予想

これは最初に挙げた飲み会の例の“常套句化”というのもこちらに含んでよいかもしれません。「普通こう(発言が)来たらこうでしょ」「人はそうされたらこう考える・思うものだよ」という何を根拠にしているのかわからないパターンです。

例外を挙げるとしたら心理学や統計学を参考にしているケースです。特に論文や文献を実際に読んだり、専門知識を元に「ふつう~」と表現している人の場合は、一理あるのは認められます。

ただその場合ですら、「”今回がそのパターン外かもしれない”という可能性を考慮していない」とい問題点が考えられます。

「100人中99人がそうだから貴方もそうかと思った(またはそれより天文学的数値)」という話であれば、専門分野にしか関心のない人間・8割主義で効率を求める人…もっと穿った目で見れば、マイノリティの存在を考慮する余裕を持たず生きている人であれば「その(99人ではない)1人」を考慮できなかったのも頷けます。仕方のないことです。

ただあなたに植え付けられた”常識”とやらがどれほどあなたの世界を狭めているか知らないのは不幸かな、と個人的に思います。

 

若干1つめの分類と重なる節があるかもしれませんが、言わんとするところが伝わっていれば幸いです。

 

では今度は、”察してほしい”人は何を考えてそうしているか、です。これも2つに分けてみましたが、1つめは”常套句化”の話とほとんど同じなので割愛します。

 

ではもう一つは何かというと、「他人への期待」です。もっと厳しい言い方をすると「甘え・責任逃れ」です。”目に物言わす”というそれこそナマモノではない比喩表現が存在しますが、「言えない」というより「言いたくない」人が相手に察してもらおうと狡猾に上手にやるケースもあるようです。この場合は奥ゆかしさとは言えません。きっと、ぽっつんがこれまでの文章で触れてきた”察し”には「相手の立場や心情をおもんばかって」「言わせてはいけない・申し訳ない言葉を言わせずに済むように」という意図持つものが含まれているかと思うのですが、今回のはどちらかというとエゴイズムが先立ってきます。

じゃあそうした「察してチャン」は必ずしも説教区的意思で生まれるかといえば違うでしょう・それこそ察する文化で生きていく間に「最後まで自分のこと・意思を伝える」という場面や必要性があまり巡ってこなかったのかもしれません。もっとひどい場合、「最後まで伝えることを許されなかった」かもしれません。もともと口下手であったり身である遺伝要因と環境要因による圧迫がかさなっているのではと推測します。

 

あ、ちなみにしばしば巷で取りざたされる「ごはん何が食べたい?」に対する返事―

”「何でもいい」と言っておきながら何を提案しても「んーそれはちょっと」と否定する”のケースはこの限りではないかと存じます。

特にこの「何でもよくない」人間が女性であった場合、生物学的な生存本能から来るもの…言ってしまえば”オスの能力を試す本能的手段”ということが考えられますから…

 

んー、でもそう考えと、飲み会などのケースで見られた「即断できない人間」も、そうした本能をなぜか引きずってしまった人、と捉えられますね…人間は複雑だ。。

 

ちょっとまとまりが悪いですが汗

 

今日はこの辺で

 

ではまた

 

 

ミニマリストを目指して良かったこと その2

こんにちは、ぽっつんです。


部屋に物が溢れていた頃、私は「物を使う」というより「物に使われていた」気がします。


"せっかく買ったんだから使わないと…"


"賞味期限が切れそうだから使わないと…"


"朝の支度は忙しいけど服を選ばなければ…"


自分の人生、自分の時間


ただ歩いているだけなのに、常に何かに追われているような気がする。


実際、課題やレポートには追われます笑


けれどそれも、積極的に取り組めば自分から関わっていけるもの。


追われるということはどこかで逃げているのかなぁと感じます。


基本的に脳内逃避癖があるので、こういう宿命なのかもしれないけど。

それはそれで自分らしいかもしれないし。


だけどもう少し能動的に、たった一度きりの人生をつくっていきたい。

そしてそんな人生への第一歩を踏み出せた!


これが、私がミニマリスト  を目指して良かったな、これからももっと変化を楽しみたいな、と思えた理由の1つです。


ではまた。


これってもしや、メタ認知!?

こんにちは、ぽっつんです。

 

ある日、あることについて悶々と考えていたとき、ふと気付いたんです。

 

「自分は今、悩んでいる!」って。

 

うん、いや、当然といえば当然のことなんですけど、意外と難しいことだと思うんですよ、これ。

 

悩みが解決した後なんかに、「あの時私はこんな事で悩んでてね〜」なんて回想して言える方は多いですが…

 

「答えが見つからなくて困っている」という状況を自覚できないと、それこそ相談するときにも”ただ愚痴る形になる”とか、”アドバイスを適切に求められない”という相手にとっても自分にとっても大変困った状態になります。

もし、答えが分かっているはずなのに実行できない・人に答えを求めようとするのは、答えから逃げたい、答えに見つかりたくないことの現れです。

悩んでいるその瞬間に強く自覚する。そして、解決できそうな事ならブレインストーミングしたり誰かに相談したり、歩みを進める。考えても仕方がない事が脳に焼きつきそうになっているときは、牛乳を飲んでみたり(案外お腹が空いたら喉が渇いているって時もあるから)、ストレッチしたり…とにかくモヤモヤから離れる。

こういうことを習慣に出来ると、人生はぐっと自分に味方してくれる、そんな気がします。

 

ではまた

小物はアクセントになるからこそ、迷う。

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こんにちは、ぽっつんです。

 

みなさんバッグや靴を何色にするか、迷いませんか?

 

黒や茶色は無難だけど、赤やネイビーなどの差し色もいいですよね。

 

たくさん持つのなら、ベーシックからアクセントになる色まで持てば良いけれど、必要な数以上に持ちたくない。

 

私の場合、これがマフラーにも当てはまります。

チェック柄は可愛いけれど、白や黒の単一カラーも美しい。

カラーコーディネートの観点からすると、なるべく3色に絞った方が良いらしいのでファッション音痴な私は単一カラーが合ってるかな…

でも、今持っているベージュベースのチェックの大判ストールは捨てがたい。

 

2つはセーフかなぁ…

 

悩むところです。

 

また進展があれば報告したいです。今回は短かった笑

 

ではまた

何のためにブログというものが存在するのか

こんにちは、ぽっつんです。

 

みなさん、ブログって何のためにあるか考えたことありますか?

 

私がブログを始めた理由は、正直何でも良いからチャレンジしたかったから。

むしろ、なんでブログなんていうものが存在しているのか、素人の日記を公開しているのか分からなかった。(言い方)

だからこそ始めてみました。その場所からしか見えない景色があるかもしれないから。

 

なんのためにやっているか、分かりながら自覚しながらやれる事ってほとんどない気がする。

 

生きる理由は、何のために生きているか知るためだと思う。

 

死ぬその瞬間に、生まれてきた理由がほんのり実感できたら良いのかなぁ

 

断捨離にも当てはまると思います。

マキシマリズムを実感した人にしか味わえないミニマリズムがある。

 

今は、そんな気がします。

 

ではまた。

 

追記(2/15)

ブログは、公開日記に近いので、自分が今、何に関心があるのか、何と向き合おうとしているのか、といったことのアウトプットになっています、少なくとも。

制服って必要なの?(アルマーニの話題から考える制服不要説)

こんにちは、ぽっつんです!

今日は、福井の記事に引き続き、少しだけ社会に目を向けた たわ言を

 

最近とある公立小学校で、トータル50,000円ほどする制服が採用されようとしているという話題がメディアで取り上げられていますね。

意外なのは、当事者である生徒の保護者の方々からさほど反対意見があがっていないということなのですが…(実態は知りません)

 

うーん、どうなんだろう

私はなかなか難しいと思います。はっきり言って反対だな。

理由は以下のとおり。

 

制服によって貼られるレッテル

 

今回の件に限らず、私は基本的に制服反対派です。

それは一人の人間に強いレッテルを貼られることになるからです。

どんな学校にしろ、一個人ではなく"その学校の生徒"として見られるわけです。

誰から?例えば地域の人たちから。

所属する学校によって同じことをしていても印象が変わるわけです。

少し大げさな例えをすると、普通に買い物をしていても、素行が悪いことで有名な学校の制服を着ていれば「万引きしているのではないか」と思われたり、あらぬ疑いを招くこともあるわけです。たしか心理学で習ったことに、"人間はその印象どおりになろうとする傾向がある"みたいなのがあった気がする…(曖昧すぎ)そんなことで人格狂わされたくないですよね。

逆に学校側からすると、その学校の生徒として、社会的立場を意識して行動することが目的だーみたいな側面もあるそうですが、義務教育における学校なんて特に、本人が選べるもんじゃないじゃないですか。中学入試だって下手したら大学入試より難易度が高いのに、そこで受かったか落ちたかで周囲の見る目がガラリと変わる。なんて馬鹿馬鹿しいんだろう、と思ってしまいます。

 

大学の講義でも制服の意義についてディベートする機会がままありますが、案外賛成多いんですよね。あまり建設的な理由を聞いたことはありませんが。日本では制服がポピュラーなのでその存在に疑問を感じない学生も多いのかもしれません。

一つ挙げるとしたら、「通学服を選ぶことに余計な時間や労力を使わなくて済む(から、勉強などに集中出来る、そもそも学校はオシャレしに行くところではないし)」ですかね。

一瞬なるほどとも思える話ですが、そしてよく聞く話ですが、これは本当でしょうか。

 

一つの学校内にも制服カーストってない?

 

『桐嶋、部活やめるってよ』という本にもあったかと思いますが、制服をオシャレに着こなすグループとダサいグループに分かれたりしますよね。高校生くらいまで。

 

それってもうオシャレ気にしちゃってるよね、っていう。

ヒエラルキーが存在すること自体は悪くないというか、何かしら社会に属していく上ではそういうの割り切って強く生きていくしかないなって。

でも、別にそのためには制服である必要はないですよね?

制服なら時間も労力も〜って言ってるのに、「制服をどう着こなすか」に注視していたら、いっそ私服を着て行った方が早くないかな、と思います。

 

制服って実用的?

 

私が高校生の頃、とある有名デザイナーが手がけた制服を着ていたのですが…正直温度調節に困った!笑

ちょっと詳しくは言えないのですが、機能美よりもデザイン重視といった印象でいかにも"他に大した売りが無いから制服で引きつけたい"といった感じを受けていました。

そして高校在学中に身長が伸びるとサイズが合わなくなる!ただでさえ高い制服なのにお直しや買い直しに時間やお金を費やすなんて悔しすぎます。それこそ本末転倒。自分の好きな服でも無いのでそんなにお手入れする気にもならないし。

でもそんな制服だからか褒められることは多かったです。「あそこの制服かわいいよね」って。全然嬉しくありませんでした。

私は別にそこの制服が好きで入学を決めたわけでは無いし、むしろ制服を褒められれば褒められるほど"自分(の中身)には何も無いんだ"と凹んでいました。身勝手な解釈ですね。でもさっきの心理学の印象の話にも繋がります。

 

公立の小学校で高い制服を取り入れる意味とは

 

今までの話はいわゆる"学費"が必要な学校を前提として話してきました。

ただ、今回アルマーニの件で注目を浴びている学校は公立です。

ぽっつん自身は公立の学校に通ったことがないのでイメージが先行してしまうでしょうが…

公立というのは、給食費や雑費以外は県や市が、税金で管理してくれる。そういう学校ですよね?映画やドラマでよく描写されているのは「母子家庭で給食費も払えなくて云々…」といった、"お金のなさを前面に出しているもの"です。もちろん全ての公立に通う人たちがそうだとは思っていません。ただ、その存在意義からすると、そういった金銭的余裕のない家庭にも一定の教育を…という趣旨が組み込まれていると考えています。

ちなみに今回話題にしている小学校は実際に見たことがあるのですが、とても公立とは思えませんでした。東京観光の際に通りがかっただけなので、その学校名すら知らず私立の小学校か〜と思いながら通り過ぎていました笑

反対意見が少ないのであれば、50,000円の制服で家計に負担がかかるわけでは無いのかもしれませんが…全員がそういう環境にいるわけではありませんし。

それにしても、違和感を感じます。

 

どうしてこの学校がアルマーニを採用しようとしているのか?という部分も気になります。

ワイドショーなどで校長が会見を開いた場面が放送されていましたが、抽象的な理由過ぎて伝わってきませんでした…もっと深く考えたうえでの決定なのかもしれませんが、圧倒的にプロセスが見えてきません。これでは独裁的だと揶揄されてしまっても文句は言えないかも。

 

というのがぽっつんの主な意見です。

今後、新たに思うところがあったら更新するかもしれません。

ではまた。

 

 

 

 

 

そのチョコが虚しさで溢れる理由

今週のお題「バレンタインデー」

 

こんにちは、ぽっつんです。

 

さて皆さん、嬉しいかな悲しいかな、バレンタインデーが近いですね!

 

本命チョコを好きな男の子にあげたことのある方もいらっしゃるかと思います。

 

でもちょっと待ってください。

 

そのチョコは本当に本命チョコですか?

 

もしあなたが、「好き」と認識している相手に「バレンタインだからチョコをあげた方がいいのかな?」と迷っているのであれば、考えてみてください。

 

それは、義理ではありませんか?

 

だってあなたが本当に相手のことが好きなら、チョコなんてあげようがあげまいが関係ないからです。

 

仮に相手の人もあなたの思いに気づいていたら、相思相愛だった場合…もちろん告白するつもりならまたとないチャンスですから、生かさない手はありませんね。それに相手を思いやって気持ちがこもったプレゼントというのは素敵なものです。

しかし、あげたほうがいいのかな?というのは完全に"義理"の思考回路ですよね。

 

かつて、私もそんなことに頭を抱えた事があります。

当時、そこそこLINEのやり取りをしたり何度か2人で食事や映画に行くという相手がいました。

ある日バレンタイン付近に会う事になったのでその日は晩御飯いらないよーとの旨を親に伝えると…

「チョコあげるんでしょ?」

 

へ?

 

完全に眼中にない話題でした。しかも母に連れられてデパートに行くと某有名チョコレート店のパッケージを見せられ…あげなよ、告白されるかもしれないし…とのこと。

で、あげました。その後お誘いを受ける頻度も多くなったのですが…

不思議と嬉しくならなかったんです。

 

それは自分の気持ちに嘘をついているから。

自発的な気持ちでやっていない事って、時に自分の心に傷を作ることになるんです。もちろん相手にも傷を負わせたかもしれません。付き合う気もないのに高級チョコをあげたりして結局付き合わなかったし。

 

人生においてかすり傷をたくさん経験すると強くなる、という発想があると思いますが、うっかりその傷が深いものになると立ち直るのが自力では難しくなったりします。

今回の件ではそこまでではありませんでしたが、なんだか悪いことをした気分にはなりました。

そして問題なのが、なんであげる気になったか?という点なのですが…

余裕がなかったから。ここでもしチョコをあげずに仲良くする機会を失ったら、二度と好きになってくれる人はいないのではないか…と。

若いですね(?)というよりも完全に自己防衛、エゴイズムの塊です。

 

だけどそんなことを思ってしまうのって

自分で自分を愛せていないから

だと思います。

 

自分で自分の体や心を労ってあげないと、人に愛されたり好かれたりすることに執着するという違和感たっぷりのベクトルを持って"自分の価値を人に委ねてしまう"んですよね。

 

後悔はしていませんし、むしろこうして気づきを得た良い経験だったと考えています。

 

ちなみに今年のバレンタインは自分用にチョコを買いました。以前の記事に書いています。

"1年間お疲れ様、まだまだ寒いけどこれからもよろしくね"という思いを込めて。

 

ハッピーバレンタイン

 

ではまた。