買わないことから捨てることへの移行、その落とし穴。
部屋に物が溢れ、足の踏み場もない。
以前の自室は比喩とかではなく文字通りそんな状態だった。
そこから脱出しようと様々なサイトや本を見漁った。
ある日、「自分は片付け方を知らない」と知った。
だって、学校も誰もそんなこと教えてくれないし。…
だから最初は、「片付け方」を模索していた。本やサイトをまた漁るように見た。
でも、違った。
問題は、整え方よりも「物の量」だったのだ。
部屋に対して異様に物が多かった。
それに気づいてからは、「とにかく手放す」ことに注視した。
ところがここにも落とし穴が。
ただ闇雲に捨てても、物は減らなかった。
厳密にいうと、「また増える」のだ。
どうして。こんなに減らしているのに。
この盲目さが命取りだった。
「自分が何を持っているか」
「本当に必要なものを持っているのか」
「何が必要なのか」
といった事がまるで分かっていなかった。
いわば「問題集を解くだけじゃダメだと知り、模試や過去問を解きまくったは良いが解きっぱなしな受験生」と同じ状況。
なんの意味もない。
無駄な時間を浪費しているだけ。
(あ、受験生の皆さん、センター試験お疲れ様です。)
なんのために模試を解くのか。
なんのために物を捨てるのか。
「自分の立ち位置を自覚するため」なんだ。
心理用語で言うところの「メタ認知」。
当然と思う人にとっては当然のことかもしれないけれど、
頭が整理できていない人…
心の寂しさを物で埋めようとする人…
何かに夢中になると周りが見えなくなる人…または多動不注意傾向にある人…
そんな特性を持つ人々にとって、部屋を整理するということは並大抵の事ではない、と思う。
管理できる物の量だって、人それぞれ。
私の場合は不注意傾向と視野が狭いという傾向が強く、(あえて言えば、教育業界で死語になりつつあるADHDやアスペルガーの特徴にも当てはまる)人より管理できる物の量が少ないらしい。
はじめは認めたくなかった。
キャパが狭い、というのは、社会生活では死を意味するような気がして。かっこ悪く感じて。きっとそうだった。
でも、「自分にとって不要なものにすがっている」事の方が恥ずかしい事だったのだ。
自分にしかない、個性を持った自分の
たった一度の人生。
誰かを見て誰かの基準に沿って誰かに教えられたように生きる。
そんなことに意味はなかった。
(参考にするのは大切。立ち位置を確認するために。)
だから、「"自分にとって"本当に心地よい環境」で生きる事が、生きる上で本当に心地よい事だと知った。
五感もなんだか冴え渡る。
ちょっと長くなったな。
でも、片付けがここまでダイレクトに人生に反映するなんて。
もっともっと断捨離や整理について話したいけど、またの機会に。