ぽっつん大学生のミニマリスト生活

大学生が、必要最低限で丁寧な暮らしを目指すブログです。物質的なことはもちろんですが、精神的な側面も。

こころの花も鮮度が命

今週のお題「お花見」


こんにちは、ぽっつんです!

ちょっと3月らしく(!?)鬱な話題をお届けしますね。


そろそろお花見シーズンです。ぽっつんの住む地域でも、近所の公園ですら立派な枝垂れ桜を咲かせていて、命の力強さを改めて実感させられます。


ところで私は春休み中なのですが、なんだかモヤモヤとしっくり来ない。この度そんな切ない切ない、人生の春休みを謳歌しておりまして…

はじめのうちは調子良かったのですが、どうも人間社会に溶け込もうと必死になるうち(妖怪目線かな)人とあまり会わないことに寂しさを感じるようになってしまったのか

もしくは、やっぱり深い心の底から湧き上がる欲求を我慢しすぎたのか


何がしたいかわからない


そんな日々が数日続いておりました。


特に、

ぽかぽか陽気で

桜も咲いて、

新たな出会いがある春は


代わりに何か

ぽっかりと

大事なものを、失うような

そんな悲しみどこからか


(何故俳句チックに…不慣れでお見苦しい。すぐやめます。)


どうせ暇を持て余してしまうからと、いろいろお勉強やら習い事やら予定を入れてみたり…自学の時間を設けてみたり…


いろいろしてみたんですが、数週間で"飽き"が来ました。

あの恐ろしい、飽きが。


そろそろそのお熱も再浮上しそうなものの、

うっかり「何のために生まれてきたんだっけ…?」とか考え始めました。


そして思い出しました。私、もともとエセ哲学チックな感傷が割と好きだなって。

特に今は、新学期が始まれば「就活」という現代社会の日本人の人生で最も大きなイベントが迫り来るんです。


自己PR…できる?わたし、何して生きてきたの?

何をして生きていくの?


もともと主観的ながらも自らの命や人生の真理を問いたがるぽっつんの本能を、うっかり解き放ってしまいまして。


ドツボです、ドツボ。


ドツボな中ふと振り返ると、私、もともと漫画家志望だったんですよね。


就活なんて性に合わないって思ってました。わお。

厳密に言うと小説家とか建築家とかジャンル問わず"なにか好きなものをつくる"感覚が好きだったんですよ。今は忘れかけていたけど、でも体は忘れないんだけど。

そして、"世の中の人がみな絵を描くことが好きなわけではない"=絵が好きなのは自分らしさ、といったことに気づいたのはもう高校生か大学生になってからで。大学に入るまでは猪突猛進してないとやってられなかったので、忘れてました…

ちなみにぽっつんは自称進学校普通科高校を出て、一浪の末に国立大学に入りました。

地方なので、その地域の人からはすごい!天才!と言われます。お世辞と分かっていますが、そんな事より"この地方国立神話、怖い!!"という感覚の方が強いですね。おばあちゃん世代は本気で言ってますもんね。たぶん。まぁ実祖母が喜んでくれたのは嬉しいけど…世界が狭すぎます。

話が逸れました。で、


…あれ?昔の私、こんなことしたかったっけ?専門学校に行って絵の勉強するんじゃ?そうでなくても、なんでこんな、公務員やら金融やら、カタギなお仕事へまっしぐら?


ああ、もちろん(ではないかもだけど)親には説得されましたよ

「公務員になればね、アフターファイブで好きなことできるよ!絵も小説もたくさんかけるよ!」

今から考えると賢明な説得です。そして、そっかー!っとコロっと、騙されコロっと方針を改めた私自身も、ある意味つよい!


そうです、最後は自分で選んだのでした。最後にはね。


さらには自分自身でも「いきなりアートな道を選ぶより、より複雑な社会経験をしてからの方が深い作品が作れるはずだ!辞めたくなったら辞めればいいし!」などと甘〜い角砂糖のような思考回路をしていたんですねー平和ですねー。


と、なぜか春休みの1週間ほども掛けてやっとここまで思い出せたんですよ。


ちなみに後悔というのは後からするものなので、選択した道が正しかったかどうかは天のみぞ知ることなので、いずれにしても死ぬその瞬間までのお楽しみなわけです。この道が良かったかどうかを知るのは。

そう思ってないとやってらんないですし。


で、そうそう

今回のテーマはお花見でした←

花は咲くべき時に咲いて、心は動くべき時に動いて

体は素直についていくべきだなぁ

でも、どこへ行ったかわからない心も、確かにここにあるはずだよなぁ


ザックリ言うと、そんな風に感じたんですよね。


お花見したいなー!心を見失わないためにも、心ときめくためにお花見しよう!


そんな感じです(どんな感じや!)


ではまた。

言葉をどうすることが語彙力なのか

お久しぶりです、ぽっつんです。


だんだんと、言葉を尽くして記事を書こうとすると1つにかける時間が長くなり…そうこうするうちに新鮮な気持ちが薄らいで筆が(キーボードが)進まず…なんだかとても久々な気分。塩梅が難しいです。


さて、最近ふと思ったことなのですが


皆さんは語彙力に自信、おありですか?

そもそも語彙力ってなんの事なのでしょう。語彙を知っている事つまり沢山インプットされている事なのか、運用する事なのか。さてでは「語彙力」の定義でも調べるかと辞書を開けば、また記事が眠りにつきそうなので一息に書いてしまいます。皆さん各自でお調べください。


最近同年代の子と話している時「私、最近全然本読んで無い〜語彙力ないわ〜」という発言が飛び出しました。別段深い意味ではないのでしょうが、私はずっとそのことについてモヤモヤと考えあぐねていたのです。

なぜなら、「この人は本を沢山読むのに、なぜ語彙力がないのか?」と考えたからです。"伝えたい思いが複雑すぎて言葉が追いつかないor知識が足りない"というのも人によってはあるでしょうが、その人に感じたのは少し違う感覚でした。


まず思ったのは、その人に足りないのは言葉ではなく経験では?ということ。

言葉というのは記号です。数学でXを使う時、イコールで長ったらしい式を繋げることが多いですよね。あれは、Xが存在するだけでは成立しません。長ったらしい式があって初めて記号が必要とされるのです。

なんかわかりづらいな。

まず経験や体験があり、そこから感情や考えが浮かび、それを伝えるべき又は伝えたい相手がいる。

そこまで来て初めて言葉は必要になると思うんです。

私から見たその人は、かなりの保守派。この春でこそ「いろいろチャレンジしてみる」とか言い始めましたけど、自分の殻に閉じこもっている印象。飲み会にも一度も行ったことがないそうで。感情もかなり絞られている様子で、よく言えば小賢しくないと言えるでしょうが"ありがとう"や"ごめんね"といった基本的な言葉も、いつ言うべきかまだあまり知らないみたいで。

そんな彼女に、果たしてバリエーション豊かで複雑怪奇な語彙が必要なのか。


一つ付け加えるとしたら「きっと彼女は既に沢山の言葉を持っている」という前提があること、です。

ちょっと時間があればサッと本を取り出して読むような人ですから、言葉が脳内に蓄積されていないわけではないと思います。

ただ、ただ使い時を知らない。こうした言葉に集約できるのかな、と。


一方のぽっつんは完全に語彙力不足。そこに加えて彼女とお揃いの言葉足らず。

見事に絶望的なんですけど、この春休みを利用してでき得る限り本を読み漁ってやろうと決意した次第です。また、言葉に見合うだけの経験値も、ガシガシ上げていきたい。と言いつつ私も立派なインドア人間なのですが…


ではまた。

似合う色、似合う言葉。

こんにちは、ぽっつんです。


謝る時の言葉にはどんなものがあるでしょうか。「ごめん」とか「すみません」とかがメジャーどころですかね。


ぽっつんの周りにはしばしば「すまん」という言い方で謝罪の意を示す人がいます。

なるほどこういう言い回しもあったなと感心する一方で、なんとなくもやもやとしてしまうのです。

どうしてかな、と思ってその言葉に関する記憶をたどってみると、「すまん」というのは自分の父などの、いわゆる中年男性が使用していたことを思い出しました。


でも最近ぽっつんの周囲で「すまん」を使っているのは同級生の女の子がメイン。多分このギャップが自分の中で違和感になっていたのです。なんとなく自分の中で"目上の人"しか使わなかったはずの、上から目線の言葉を同志であり対等だと思っていた相手から言われた事に、むっとしたのでしょう。


また、その子に限らずとも「すまん」を常用する人はよく「君」という"上の者が下の者に使う"呼び方や「(ありがとうの代わりに)おつかれ」という言葉も口にします(職場ではない場面で)。語尾に関して言えば「してあげる」とか「してもいいよ」といった"許可"のベクトルが強いです。


でも、目の前にいるのは少なくとも自分と同じ大学生の若い男女。なんだか腑に落ちません。馬鹿にされているのかなーと感じ始め辛くなっていました。


そこで、試しにぽっつんも同じ言葉をそのチーム"上から"に使うようにしてみました。

すると、反発してくる人・自分の立ち位置を下げまいと必死で上から目線を貫く人・こちらを下げようと食い下がらない人、に別れました。


なるほど、"この人たちは言葉の面において"プライドを尊重したい人たちなのだ、言葉に余裕がない人達だったんだな…とその時は思いました。

また、自分自身"上からものを言わない"と大抵の場面で意識しているので、すぐにそのチャレンジは終えました。(だから余計に上からな人が目につくんでしょうね)


しかし、私が使うと反発を食らう言葉が何故あの人たちだと許されるのか?(私以外の人間に)違和感なく受け入れられるのか?というところに目がいきました。(他の人がどう感じているか確かめてはいませんが)


共通している点としては、チーム上からはこぞって"お兄さん・お姉さん的環境にあった"ということが挙げられました。昔から"しっかりしなきゃ"という思いがあって、視点や言葉も上からなのかも、そう考えると自然だとも思えました。

しかし、かといって、頼りになる人がみな偉そうな態度をとるわけではありません。すなわち上記の言葉選びをする必然的な理由にはなりません。


そこで思い至ったのは、"その言葉を使わないと自我が保てない"という考え。

人に頼る・甘えるような言い回しは似合わない…かといって滅茶苦茶頼りになる存在でも無い…

そんな人々が、"自分にも似合う言葉"として前述の言葉たちを選んでいるのかな…というか他に選択肢が無いのだろうな…

そんな風に感じられたのです。


思い返せば、ぽっつんは昔から"妹キャラ"。同級生どころか後輩にすら"可愛がられる"立場でした。

(この歳になってやっとその事に気づき受け入れられた)

愛されキャラとも言いますね。でも、愛され可愛がられ助けてられる立ち位置というのは、同時に"下に見られる"とか"馬鹿にされる"宿命なのかもしれません。

よく、ペットなどの愛玩動物は人間の保護欲を刺激すると言いますが、それは自分より弱い者を守ってあげたいから湧く本能だそうです。"可愛い=可愛い"という感情は、相手を弱いと認識する事と繋がっているようです。


そう考えると、チーム上からも相手を選んで言葉を変えているのかもしれませんね。


つまりこれって、その人たちに限らず"似合う言葉"が人それぞれあるってことなのかな?

似合う色や服があるように、似合わない色や服がある。それと同じように、言動にも似合うに合わないがあるのかも…

と二十歳の自分はやっと向き合うことができたのでした。


ではまた

もはや何を祝っているか分からない

今週のお題「ひな祭り」


こんにちは、ぽっつんです。


みなさん、桃の節句は何を飾りますか?そう、雛人形ですね。

ぽつ家の猫様は雛人形を生贄か何かと勘違いしている様子。会えば必ず猫パンチでご挨拶。次に十二単をがじりと掴んで「今だ!早く逃げろ!」とでも言いたげなアクションをぶちかましてます。

そして自分(日本人形怖い系チキン)は目を合わせないようにひたすら逃げていた。


そうこうしているうちに母が、ぽっつんの誕生日ケーキと母の誕生日ケーキとひな祭りのひな祭りケーキという一粒で三度美味しいホールケーキ1つを用意してくれた。

さらに、数年前のこの時期は、大学の合格祝いという役割も担ったケーキだった。

もはやなんのお祝いだったか誰も分からない。

合理的でミニマムな祝い方でとってもよろしゅうございますが、混乱をきたすぐらいならホールケーキの伝統儀式は撤廃されてもいい気もする。「付き合って○○日目記念日♡」と毎日言ってくる彼女のような面倒さ。


さて、明日は桃の節句。桃を頬張る季節には程遠いけど、それに類似した大粒のイチゴでも頬張りたいものだなぁ。


ではまた。

血液型の話題は人種差別にならないのか

こんにちは、ぽっつんです。

 

最近、どこの研究か忘れましたが、ついに血液型による性格の差はないということが証明されたそうです。あれ、なんか、昔から相関性は無いとか言われてたはずなんだけど…と思いつつ、一人で喜んでいました。早くこの見識が広まってほしいと願います。

というのも、ぽっつんはB型。世間のB型の方々がどんな人生を送ってきたかは知りませんが、個人的に良い思い出はありませんでした。

なぜかわからないけど高校時代までは何かというと血液型の話題に。いや、大学入学の際もありました。今思えば「話題作り」とかいうやつだったのだと分かりますが、ぽっつんがBだというと毎回「え!?意外!」とか「ごめんA型だと思ってた~」とかいうちょっとよくわからない答えが返ってきました。自分も自分で、その時その時は大して気にならず愚直に受け答えをしていたのですが…(そしてその人々はおそらく、小学生時代に読んだ血液型占いの本とかを参考に一時的リアクション芸人をしていただけなのでしょうが)だんだん嫌になってきました。というのも、Bはろくな評価がされないんですよ笑。勝手に評価されるだけなら自分に関係ない話なので構わないのですが、そのうち「ぽっつんはB型だから性格が悪い」とか「やっぱBだねー」とか、根拠のない誹謗中傷を受けることが増えましたのには困惑しました。これも、今考えれば私の性格が悪いことに納得のいく?理由をつけたい人が思慮もなく言っていただけなのですが…

何気に意味不明だったのは「お前はB型だけどいいやつだと思う、俺はB型好きだよ」です。悪気はなくむしろ慰めてくれているのでしょうが、慰められる筋合いはありません。マイノリティだからって勝手に哀れまないでください。という調子。

そのうち、「血液型を聞いた途端に関わりを断つ」つわものが現れました。時期的にそうであったことや周囲のB型へのあまりにも劣悪なイメージを知り、そう思い込んだだけかもしれないけど。まあそんなことで離れていくような人間はこっちからお断りです。その後無理に関係を続けてもすぐ破綻する相手だろうと思います。むしろ早めに気づけて良かったのです。

まるで、かつて日本で踏み絵をさせられたキリシタンのような迫害ぶり。もしくはナチス独裁政権でしょうか(血液型の場合誰が権限を手握していたかは明言を避けたほうが良いのでしょうか)。

十二分に人種差別ではないでしょうか。

 

ちなみに昔”人間は評価されたとおりになっていく”という説もありました。

(よく覚えてないので気になる人は調べてください)

「俺はこの血液型だからこういう性格なんだ!」みたいな。良い方に作用すれば御の字ですが、迫害される側なのであんまり良くない笑

いわゆる”引き寄せの法則”なども「セルフイメージをつくる」という意味ではそうですよね。最近だとフィギュアスケートの羽生選手が「直前まで弱気な発言を吐かないようにした」とか、スピードの小平選手が「勝者のように振る舞いなさい→お辞儀をしないように」とコーチが指導して金メダルへ導いたとか。自己啓発本でもよく取り上げられるように、思い描いて評価するとその通りになるというのはもはや周知のことでしょう。教育心理学では親子関係についても親が子供にイメージを植え付けてしまうことで将来に影響するという話もあります。

血液型の話も例外ではありません。というか私が見た文献は血液型での例でした。

つまり、周囲が勝手に血液型ごとの人間性を唱え続けるとその通りの性格になる!?ということです。

どうですか。良心のある方なら、勝手に他人の性格を決めつけることに責任を感じてきませんか。

 

ただし、1つだけ「血液型による性格診断」を是正する術を見つけました。それは統計学です。とある本では”最強の学問”などと言われていますね。基本的に(星座や人相など)占いの類は統計学が元になっているそうです。

統計学については割愛するので気になる人は調べてみてください。)

ちなみに個人的経験則などでは推し量れないほど説得力のある数字です。

もし血液型占いもその統計学の一種だとしたら、ばかにできない傾向分析ということになります。

にしても長所と短所は紙一重だということも考慮すると、「B型だけ短所しかない」ということは有り得ないです。何者かの策略に違いありません。

 

ちなみにB型説明欄でしばしば見る”マイペース”という言葉は別にプラスでもマイナスでもないはずです。調和を重んじる島国文化に合わないせいで、悪口のように捉えられているのかな…

B型の血はもともと狩猟民族の血がルーツと書いている文献もあるので、なーんか納得しちゃう気も。

(久々に血液型関連の本やサイトを見た際に書いていました。本当かどうかわからないのでそれこそ都合よく解釈します)

 

結局、最後にはぽっつん自身も根拠不明の情報に踊らされてしまいました。我ながらラテン系の血が入っていると感じる機会があるせいか嬉しいのです。(顔は全然ラテン系じゃないけど。)

 

何が言いたかったかまとめると

 

まとめ

・血液型で性格を判断しようとすること自体が悪いとは思わないけど

・他人が決めつけると、決めつけた側の人は逆に人間性を疑われています。

何に対しても迫害や差別はダサいです。多様性の時代だしね

・だから自分のセルフイメージを高めて自己実現の役に立てよう!

ザギトワにトリハダ

タイトルはダジャレではありません。断じて違います(そもそも大して韻を踏めてない)

こんにちは、ぽっつんです!

オリンピック白熱してますね。私もちょこちょこと見ているのですが、1番目に入るのはフィギュアスケートです。しかも今年は、はじめて見たフィギュアスケートの選手に完全に心を奪われています…

それはロシアのアリーナ・ザギトワ選手です。テレビの表記ではOARとなっていますが、あれは国ではなく個人で登録しているからだかなんだかだとか。アナウンスでは普通にロシアって言われてますよね。

日本人選手も応援していますがショートプログラムブラックスワンを見た瞬間に虜になってしまいました。個人的には、かつて浅田真央ちゃんを見た時に似た感覚を覚えました。トリプルアクセルをはじめて(だっけ)決めた頃もそうですが、スランプから脱して真っ赤な衣装に身を包みトリプルアクセルを復活させた…あの試合は今でも脳裏に焼き付いています。2人に共通した何かを感じます。

話をザギトワに戻しますが、あのスタートポジションといい技の展開といい、これ!これが見たいんだよ!!と思わず叫ぶ内容でした。お父様が元アイスホッケーの選手でお母様はフィギュアの道を目指されていたそうです。サラブレッドってやつですかね。
まだこれから成長期を迎える気もするので、難しい時期が訪れるかもしれません。ずっおその魅力を発揮して活躍して欲しいです。
成長といえば、ショートプログラムをもう一度見たくなって動画を漁っていると、彼女がアニマル柄の大人っぽい衣装を身に纏い滑る姿を発見しました。とても15歳には見えないほど円熟さを感じさせるものだったのですが、コメント欄には衣装に関する否定的な意見が多くて意外でした。確かに妖艶さは感じましたが、あれはあれで彼女にしか出来ない演技だと思います。それこそ仮にこれから成長期を迎えて体の柔軟性などが変化してきたら、逆にあのような演技がやりにくいのでは。まぁ成長期がまだ来るのかとか知らないですけど。

何はともあれ美しいです。明日のフリーも楽しみで仕方がないです。もちろん坂本さんや宮原さんも応援しています。みなが自分のベストを尽くせるよう。

最近また何を描こうか燻っていたのですが、ムラムラと描きたい欲を掻き立てられたのでそういう意味でもありがたいです。表現力の奥深さは静止画では伝わりませんね。

色を塗るか、そもそもペンを入れるかまだ迷っています。

ではまた

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合格証書を手放した話。受かったのは過去の自分。

こんにちは、ぽっつんです。

 

環境を整えるとき、片づけをするとき、いわゆる思い出品に手こずることが多いです。

そんな中、最近やっと、大学の合格証書を手放しました。

 

やっと本気で向き合うことが出来ました。

手放す際に自分の弱さが浮き彫り、そのことが新たな決意をもたらしてくれました。

 

すがっていた過去の栄光

 

合格証書をシュレッダーにかけた瞬間、何年も前の功績や実績が自分の自信のなさや傷ついた心を支えていてくれたことが分かりました。「今は何もない自分だって、この時はこういう大学に合格できたんだ!こんなに認められたんだ!」と。今の自分がいかに努力せず、向上心から逃れていたかを思い知らされました。

ちなみに小学校時代にとった書道の賞状や、中高時代の読書感想文の表彰状まで保管していました…

捨てるまでは、それを見るたびに自信をつけていたんです。それ自体はとても良いことと思いますが、”今の自分が何も挑戦しない言い訳”に成り下がっていました。

こんな言葉にしか直せないのですが、もうほんとに情けなかったのです。

 

今の自分の自信は、自分で作っていこう

 

だからといって、十年まえの自分にいつまでも守ってもらっているわけにはいきません。読書感想文でいくら賞をもらったって、書道がちょっとできた過去があったって、今の自分には関係ないし(読書や書道を続けていれば別でしたが、とっくの昔にやめたので)就職の足しにもなりません。まして、永遠にそれを持ち続けていては、これから増え続ける大学の教材などのスペースが確保できません。

自分で自分の首を絞めるなんて皮肉、面白くないです。

 

では今の自分に自信を与えるものは何か…ワクワクさせるものは何か、今の自分しかいません。なんなら未来の自分への先行投資をするなら今です。大学二年生の春休み。一か月は自由に使える時間があります。使わない手はありません。

 

というか正直、だらだら過ごすには限界があります。

義務教育の頃、学校に通わなかった時期があるのですが(また詳細をお話ししたいです)、その頃も、うだうだごろごろして楽しかったのはせいぜい一か月が限界でした。ゲームなんかもそうですが、人間案外忙しいのが好きみたいです。何が起こるかわからない未来にワクワクして、自分を奮い立たせるのも悪くないもんです。

 

では何をするか?

 

ここからは完全に個人の具体例であり、まだまだ目標に向かっている途中です。

 

メリットを知ろう

 

英語の勉強を真剣に始めることにしました。普通に大学の講義カリキュラムでも週に三回や四回は何かしら英語の講義がありますが、やっと気づきました。

人に言われてやらされるものほど面白くないものはない!と。

ちなみに私は英語教員の免許を取得するという選択を自分でしました。だから、無理やり…でもないような状況ですが。

でも別に英語がいだったわけではなく…中学時代尊敬していた先生がたまたま英語の先生で、私の大学での所属的に何かしらの免許を取得する義務があるから…というのがウソ偽りない理由です。もっと細分化すれば他にも理由はありますが。せいぜい”(大学の)英語の先生は優しいからすぐ単位くれるよ”とかそんなもんです。しょうもないですかね。(ネイティブは基本的に本当に優しいです。日本人の方は単位の取りやすさの差が激しい…)

ちょっと脱線しましたが、とにかく「必修の授業」って、その呼び名からしてやる気が出ません!同じ英語でもコミュニケーション系からイギリス史からエッセイから…いろいろあります。で、英語を選んだ理由が理由ですから、実は英語をものにするメリット

英語を本気で学ぶとはどの程度のどんなもんか、わかっていなかったのです。

基本的に物事のメリットとデメリットは表裏一体、どんなことにも良い面と悪い面と…どっちでもない面とあります。

大学受験に向けた表面的な英文法などはやってきましたが、実践的な英語を本気でやるということを実感していなかっったです。

外国の友達ともっとちゃんと話したい…とかは思ってましたが、思ってるだけ、でした。

 

ちょっと長くなったので、続きはまたの機会に。

(「誰にも奪えない財産」というタイトルの予定です)

 

ではまた

 

ではまた