ぽっつん大学生のミニマリスト生活

大学生が、必要最低限で丁寧な暮らしを目指すブログです。物質的なことはもちろんですが、精神的な側面も。

似合う色、似合う言葉。

こんにちは、ぽっつんです。


謝る時の言葉にはどんなものがあるでしょうか。「ごめん」とか「すみません」とかがメジャーどころですかね。


ぽっつんの周りにはしばしば「すまん」という言い方で謝罪の意を示す人がいます。

なるほどこういう言い回しもあったなと感心する一方で、なんとなくもやもやとしてしまうのです。

どうしてかな、と思ってその言葉に関する記憶をたどってみると、「すまん」というのは自分の父などの、いわゆる中年男性が使用していたことを思い出しました。


でも最近ぽっつんの周囲で「すまん」を使っているのは同級生の女の子がメイン。多分このギャップが自分の中で違和感になっていたのです。なんとなく自分の中で"目上の人"しか使わなかったはずの、上から目線の言葉を同志であり対等だと思っていた相手から言われた事に、むっとしたのでしょう。


また、その子に限らずとも「すまん」を常用する人はよく「君」という"上の者が下の者に使う"呼び方や「(ありがとうの代わりに)おつかれ」という言葉も口にします(職場ではない場面で)。語尾に関して言えば「してあげる」とか「してもいいよ」といった"許可"のベクトルが強いです。


でも、目の前にいるのは少なくとも自分と同じ大学生の若い男女。なんだか腑に落ちません。馬鹿にされているのかなーと感じ始め辛くなっていました。


そこで、試しにぽっつんも同じ言葉をそのチーム"上から"に使うようにしてみました。

すると、反発してくる人・自分の立ち位置を下げまいと必死で上から目線を貫く人・こちらを下げようと食い下がらない人、に別れました。


なるほど、"この人たちは言葉の面において"プライドを尊重したい人たちなのだ、言葉に余裕がない人達だったんだな…とその時は思いました。

また、自分自身"上からものを言わない"と大抵の場面で意識しているので、すぐにそのチャレンジは終えました。(だから余計に上からな人が目につくんでしょうね)


しかし、私が使うと反発を食らう言葉が何故あの人たちだと許されるのか?(私以外の人間に)違和感なく受け入れられるのか?というところに目がいきました。(他の人がどう感じているか確かめてはいませんが)


共通している点としては、チーム上からはこぞって"お兄さん・お姉さん的環境にあった"ということが挙げられました。昔から"しっかりしなきゃ"という思いがあって、視点や言葉も上からなのかも、そう考えると自然だとも思えました。

しかし、かといって、頼りになる人がみな偉そうな態度をとるわけではありません。すなわち上記の言葉選びをする必然的な理由にはなりません。


そこで思い至ったのは、"その言葉を使わないと自我が保てない"という考え。

人に頼る・甘えるような言い回しは似合わない…かといって滅茶苦茶頼りになる存在でも無い…

そんな人々が、"自分にも似合う言葉"として前述の言葉たちを選んでいるのかな…というか他に選択肢が無いのだろうな…

そんな風に感じられたのです。


思い返せば、ぽっつんは昔から"妹キャラ"。同級生どころか後輩にすら"可愛がられる"立場でした。

(この歳になってやっとその事に気づき受け入れられた)

愛されキャラとも言いますね。でも、愛され可愛がられ助けてられる立ち位置というのは、同時に"下に見られる"とか"馬鹿にされる"宿命なのかもしれません。

よく、ペットなどの愛玩動物は人間の保護欲を刺激すると言いますが、それは自分より弱い者を守ってあげたいから湧く本能だそうです。"可愛い=可愛い"という感情は、相手を弱いと認識する事と繋がっているようです。


そう考えると、チーム上からも相手を選んで言葉を変えているのかもしれませんね。


つまりこれって、その人たちに限らず"似合う言葉"が人それぞれあるってことなのかな?

似合う色や服があるように、似合わない色や服がある。それと同じように、言動にも似合うに合わないがあるのかも…

と二十歳の自分はやっと向き合うことができたのでした。


ではまた